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2008年9月6日(土) |
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■チャイコフスキー:バレエ音楽『くるみ割り人形』から
「行進曲」「あしぶえの踊り」 |
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ピョートル・チャイコフスキー(1840〜93)は、数多くの作品を書きましたが、そのなかでもロシアの人々にもっとも親しまれているのは、オペラやバレエの作品です。ロシアは、むかしからフランスとならんでバレエのさかんな国ですが、チャイコフスキーの『白鳥の湖』や『眠りの森の美女』、そしてこの『くるみ割り人形』は「三大バレエ」と言われ、今でも世界中の劇場で上演されている有名な作品です。
『くるみ割り人形』は、あるクリスマスの夜に、少女クララに起きた不思議な物語。楽しい「行進曲」が鳴りひびくなか、こどもたちがクリスマスツリーのまわりで
はしゃぎ、踊っています。たくさんのお客さま。たくさんのプレゼント。そしてクラ
ラは、くるみ割り人形をもらい、大切にベッドに寝かせます。
やがて真夜中。ひとり目をさましたクララは、だれもいない真っ暗な広間で、
おもちゃの兵隊たちとネズミの軍隊との戦いを目撃してしまいます。びっくりして見ていると、こんどはねずみの王様と、くるみ割り人形との一騎打ち。あっ! くるみ割り人形があぶないっ! ークララがむちゅうでスリッパを投げつけると、ネズミの王様にみごと命中、王様はバタンキュウとたおれてしまいました。いのちびろいしたくるみ割り人形は、すてきな王子様に変身し、助けてもらったお礼にと、クララをお菓子の国へと招待します。
お菓子の国のお城では、お菓子のよう精たちがお出むかえ。チョコレートの精はスペイン風の踊りを、コーヒーの精はアラビア風の踊りを、お茶の精は中国の踊りを・・・みんながつぎつぎとクララのために踊ってくれます。お聴きいただく「あしぶえの踊り」は、かわいらしいアーモンド菓子の精の踊りです。よう精たちの踊りは、いつまでもいつまでも続きます・・・。
この曲を書いた時、チャイコフスキーはもう有名な作曲家でした。彼ははじめ、50歳をすぎた大人の自分が、こどものおとぎばなしの世界を描くことができるのだろうかと心配していました。しかしちょうどそのころ、仲のよかった妹のサーシャが亡くなり、チャイコフスキーは、妹といっしょに遊んだり、歌ったりした、なつかしいこども時代のことを思い出しながらこの曲を作曲したと言われています。 |
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■ラフマニノフ:交響曲第2番ホ短調第3楽章から |
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ロシアで、いまでもチャイコフスキーの次に人気があるのが、このセルゲイ・ラフマニノフ(1873〜1943)です。ラフマニノフは、ひとりの音楽家としてのチャイコフスキーを心から尊敬していました。
ラフマニノフの家は、もとは大変なお金持ちだったのですが、お父さんが財産を使いはたしてしまったため、彼がこどものころにとつぜん貧しくなり、しかもそのことが原因で両親は別々に住むようになってしまいました。妹も病気で亡くなり、ラフマニノフの家族はばらばらになりました。彼はまだ小学校から中学にあがるくらいの年でしたが、大好きだった音楽の勉強を続けるため、お母さんともはなれてひとりで先生の家に下宿し、音楽学校に通ったのです。そして学校を卒業すると、彼はすぐに作曲家として、そしてピアニストとして有名になりました。
ところがまもなく、こんどはロシアに革命(社会が大きく変わること)がおこりました。貧しい人々が不満を爆発させ、皇帝や貴族をたおそうとしたのです。おおぜいの人が、殺されたり、追放されたりするのを見て危険を感じたラフマニノフは、家族とともにロシアを脱出して、はるか遠いアメリカに渡り、そこでふたたびピアニストとして活躍するようになります。
ラフマニノフの人生は、いつもいろいろな苦しみに満ちていました。けれども、音楽が彼の心を支えていました。おさないころに目に焼きついた、ふるさとの風景。今でも耳に残っている教会の鐘の音。おとぎばなしの中に伝えられたロシアの人々の心・・・。そうした古く、美しいロシアの姿は、革命によってふみにじられ、遠くに消えてしまいましたが、ラフマニノフの心の中では、いつもあざやかに生きつづけていました。彼は、ロシアを離れてからも、祖国へのなつかしい思いを、美しいメロディにこめて描き続けていたのです。 |
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■チャイコフスキー:バレエ音楽『くるみ割り人形』から「花のワルツ」 |
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さきほどの『くるみ割り人形』から、こんどは「花のワルツ」を聴いていただきます。お菓子の国のお城で、24人のコンペイトウのよう精たちがはなやかに踊るワ
ルツです。こども奏者のみなさんにも参加していただいて演奏します。 |
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■ボロディン:中央アジアの草原にて |
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アレクサンドル・ボロディン(1833〜87)は、プロの音楽家ではなく、医者でした。けれども彼は、こどものころから本格的に音楽の勉強をしていましたし、なにより音楽が大好きだったのです。彼は大人になっても、音楽への情熱を忘れることができませんでした。ふだんは医者の仕事がとてもいそがしかったのですが、少しでも自由な時間がある時は、それをすべて作曲のために使いました。彼がこつこつと作り続けた作品は、どれも力強いひびきに満ちていて、ロシアだけでなく外国の音楽家たちからも、たいへん評価されていました。
『中央アジアの草原にて』は、雄大なロシアの大地を描いた作品です。どこまでも遠く広がる草原。風の音だけが吹きわたるその草原に、どこからともなく、のどかな民謡のメロディが聞こえてきます。やがてそこに混じって、はるか東の国の歌も聞こえてきます。見ると、はてしない草原を、馬やラクダに乗ったキャラバン
(旅する商人たち)が、ゆうゆうと横切っていきます。やがて2つの歌は、ゆっくりと溶けあって、地平線のかなたに消えていきます・・・。 |
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■チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調から 第4楽章 |
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もう一度、チャイコフスキーの作品です。チャイコフスキーは、10歳のころにはじめてオペラを見て、「ぼくも、こんなすばらしい音楽を作る作曲家になろう」と決心したのだそうです。けれども彼の家は貧しく、両親や親せきにも彼を応えんしてくれる音楽家はいませんでした。チャイコフスキーは、音楽の勉強どころか、むしろ家族の生活をささえるために、学校を卒業してすぐに働きはじめなければなりませんでした。しかし彼はどうしても夢があきらめられず、もういちど音楽学校に入りなおして勉強したのです。
苦労して音楽を学んだチャイコフスキーが、いちばん尊敬し、音楽を作る時にいつもお手本にしていた作曲家ーそれはモーツァルトとベートーヴェンでした。ベートーヴェンは、耳が聴こえなくなるという苦しい病気をのりこえて、音楽を書きつづけた人です。またモーツァルトも、たくさんの悩みをかかえながら、人の心を楽しくする音楽を書いた人です。
チャイコフスキー自身もそうでしたが、人間の一生には、希望に満ちた楽しい時もあれば、希望を失ってつらく悲しい思いをする時もあります。友だちや家族にかこまれて幸せな時もあれば、たったひとりで孤独な時もあります。自分ではどうしようもないことで、苦しまなければならないこともあります。けれどもそれが人生というものなのです。チャイコフスキーはいつも、音楽の中でそうした人間の本当の姿を描いて、自分や、自分と同じように孤独な人々の心をなぐさめたり、元気づけたりしようとしました。なぜなら、ベートーヴェンやモーツァルトの音楽が、彼にそうしてくれたからです。
政治のせいで長い間苦しんできたロシアの人々に、チャイコフスキーの音楽が愛されつづけているのは、そのためなのかもしれませんね。 |
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