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2005年11月26日(土) |
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■チャイコフスキー作曲
交響曲第6 番ロ短調『悲愴』第2楽章 |
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| オペラやバレエの作曲家として有名なピョートル・チャイコフスキー(1840-
93 )は、ロシアの人々に最も愛されている作曲家です。チャイコフスキーは、10 歳の時にはじめて劇場でオペラを見て感激し、「ぼくも音楽家になろう」と決心したのだそうです。けれどもチャイコフスキーの家はけっして裕福ではなかったので、彼は家族の生活をささえるために、まずペテルブルクの法律の学校に行き、卒業してすぐ役所で働きはじめました。それでもどうしても夢があきらめられず、20
歳の時、ついに音楽学校に入って本格的な音楽の勉強をはじめたのでした。苦労して音楽の勉強をしたチャイコフスキーが、一番尊敬していた作曲家は、ベートーヴェンでした。耳がきこえなくなるという苦しい病気をのりこえて、音楽を書きつづけたベートーヴェンの交響曲を、彼はいつもお手本にしていました。きいていただく『交響曲第6
番』は、チャイコフスキーが最後に書いたオーケストラ作品です。この曲を演奏会で演奏したわずか9 日後に、彼はとつぜんこの世を去ってしまいました。ベートーヴェンと同じように、チャイコフスキーもこの曲で、「人間」や「人生」を描こうとしたのだと言われています。人の一生には、希望に満ちた時もあれば、失敗し、希望を失って、つらく悲しい思いをする時もあります。孤独な時もあります。けれどもそれが人生というものなのだ――というチャイコフスキーは、自分の音楽の中でそうした思いを表わそうとしています。第2
楽章は、「4 分の5 拍子」という、とてもめずらしい拍子を持っています。「愛」を表わしたというこの曲は、まるで夢の中の舞踏会のように、美しく優雅な音楽です。 |
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■ショスタコーヴィチ作曲
交響曲第5番ニ 短調第4楽章 |
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| 20世紀のロシアを代表する作曲家、ドミートリ・ショスタコーヴィチ(1906-75)は、ペテルブルク生まれ。彼がこどものころ、ロシアはまだ、皇帝や貴族たちが支配する国でした。やがて革命(社会が大きく変わること)が起き、ロシアは「ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)」という国になりました。この新しい国では、王や貴族ではなく、農場や工場で働くふつうの人々が一番大切だ、一番えらいのだとされていました。ですから、体を動かし、汗を流して働くのではない芸術家(本当はそんなことはないのですが)は、なによりもまず、そうしたふつうの人々のため、国のために、作品を作ったり、演奏したりしなければならない、というのです。一見、それは当たり前のことに思えますよね。たくさんの人々みんなのために音楽ができたら、どんなによいでしょう。ところが、それを命令したスターリンという人や、その仲間の人たちが考えていたのは、芸術家たちが自由に活動できなくすることでした。芸術家は、心に感じるままに、自由に物を言ったり、表現したりする人々。時には、するどい皮肉や、人が秘密にしておきたい真実さえも、芸術に変えてしまいます。だれがなんと言おうと、芸術家は、自分の信じる道を走って行こうとします。そんな彼らが、芸術の力で自分を批判することを、スターリンたちはなにより恐れていました。そこで、芸術家たちをいつも監視し、すこしでも言うことを聞かなかったり、ふざけたことを言ったり、あやしいことをする者は、すぐに捕らえ、閉じこめたり、殺してしまったりしたのです。ショスタコーヴィチが生きていたのは、そういう時代でした。そして彼自身も、自分や家族の命が危ないと思う瞬間を、何度も経験したのです。けれどもショスタコーヴィチは、それに負けず、いつも知恵をめぐらして、結局は自分の理想とする音楽を書きとおしていったのです。この交響曲第5番は、そんなショスタコーヴィチのパワーを、よく表わしているのではないでしょうか。 |
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■グリンカ作曲
オペラ『ルスランとリュドミラ』序曲 |
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| ミ ハイル・グリンカ(1804- 57 )が生まれ育ったのは、スモレンスクという町の近くの農村です。グリンカの父はとてもお金持ちで、そこに広い領地を持っていました。こどものころのグリンカは、ばあやが教えてくれるロシアの昔話や、村の農民たちの楽しい歌や踊りが大好きでした。家庭教師の先生は、彼が、ほかの勉強を忘れて音楽にばかり夢中になっている、と言ってしかりましたが、グリンカはこう答えたそうです。「だって先生、音楽は、ぼくの魂なんです」。やがてグリンカは、学校に通うため、ペテルブルクに引っ越します。そしてこの町で、友人となるおおぜいの芸術家たちと出会うのです。グリンカはいつも、自分に音楽を教えてくれたロシアの人々のために、自分にしか書けない音楽を書こうと考えていました。『ルスランとリュドミラ』は、ロシアの民話の物語をもとにしたオペラ。この作品が上演された時、人々は、「ロシアの土から美しい花が咲いた!」とほめたたえました。――むかしロシアの王様には、リュドミラという美しい姫がいました。3
人の若者が姫に結婚を申しこみ、勇者ルスランが選ばれますが、なんと結婚式の最中に、リュドミラ姫は悪魔にさらわれていってしまいます。ルスランは悪魔を追って城に乗り込み、みごと姫を救い出します。お聴きいただくのは、オペラのはじめにオーケストラだけで演奏される「序曲」という部分。オペラの中のいろいろな場面の音楽が使われています。最初の華やかな部分は、ルスランとリュドミラが悪魔をたおしてめでたく結婚する場面。そのほかにも、ルスランが登場する場面や、悪魔が登場する場面の音楽が出てきます。 |
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■リムスキー=コルサコフ作曲
交響組曲『シェエラザード』第3楽章「若い王子と王女」 |
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| ニコライ・リムスキー=コルサコフ(1844- 1908
)は「海の男」。12 歳の時、ペテルブルクにあるロシア海軍の士官学校に入学し、さまざまな訓練を受けました。船に乗って、遠くの海に出かけていったこともあります。そのせいでしょうか、彼の音楽には、いつも海の香りがするような気がします。はてしない大海原のひろがり。体の底をつき上げるような波のうねり。夜の海の深い青。夜明けの空のあかね色。嵐の時の風のほえ声。そして船が向かう、遠い国へのあこがれ……。彼はそれを、オーケストラのさまざまな楽器を使って、あざやかに音に描いています。『シェエラザード』は、ロシアの古い民話をもとに、いろいろな情景が音楽で語られていく「音楽物語」です。――むかしロシアに、恐ろしい皇帝がいました。皇帝は、つぎつぎに新しいおきさきと結婚し、その夜のうちにおきさきを殺してしまうのです。けれどもかしこいシェエラザードがおきさきになった時、彼女は世にも不思議な物語を皇帝に聞かせたので、皇帝は話の続きを知りたくて、彼女を殺せなくなってしまいます。「船乗りシンドバッドの冒険」や「アリババと四十人の盗賊」。今晩も、あすの晩も、その次の晩も……。そうしているうちに、千一夜がすぎ、皇帝は恐ろしい考えをすっかり忘れて、シェエラザードと幸せにくらしましたとさ……。これは日本でも「アラビアン・ナイト」として有名な『千夜一夜物語』。第3
楽章は、若い王子と王女の夢のような物語の情景です。 |
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■ボロディン作曲
オペラ『イーゴリ公』から「だったん人の踊り」 |
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ペテルブルク生まれのアレクサンドル・ボロディン(1833-
87 )も、もともとはプロの音楽家ではなく、医者で化学者でした。けれども、幼いころから本格的にいろいろな楽器や作曲の勉強をしていた彼は、大人になっても、音楽への情熱を忘れることができませんでした。ふだんは医者の仕事や研究がいそがしくて、自由な時間はほとんどありませんでしたが、わずかな時間をみつけては、あせらずにこつこつと曲を書き続けました。そうして書いた彼の作品は、どれも力強い音に満ちていて、ロシアだけでなく外国の音楽家たちからも、高く評価されていました。
オペラ『イーゴリ公』は、ボロディンが、36 歳の時から20 年近くもかけて書いていた作品です。残念なことに、それでも彼は最後まで書きおえることができないまま、この世を去ってしまいました。けれども一つ一つの曲がすばらしいので、未完成なのにもかかわらず、彼の生きていた時から何度も演奏されていました。これは、800
年ほど前のロシアで、国を守るため、攻めてきたポロヴェッツ人(だったん人)と戦った英雄イーゴリの物語。きょう聴いていただくのは、敵につかまり、捕虜になったイーゴリを、敵のポロヴェッツ人の大将がなぐさめている場面です。合唱は、「なつかしい歌よ、風のつばさに乗ってふるさとへ飛んでゆけ……」と歌います。 |
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■合唱:東響コーラス |
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| 「東京交響楽団と一体の演奏をし、より質の高い合唱つきオーケストラ作品のコンサートを提供する」ことを目的として、1987
年に発足した東京交響楽団直属のアマチュア合唱団。指導陣には一流の合唱指導者や発声指導者、伴奏ピアニスト、言語指導者を招いている。入団試験のほかに、公演毎に出演者を決定するオーディションをおこなって常に演奏の質を高めている。これまでにJ.S.バッハなどのバロック音楽からA.シェーンベルク、ストラヴィンスキー、マクミランなどの20
世紀音楽までを歌い、大きく成長してきている。 |
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■合唱指揮:大谷研二 |
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| 武蔵野音楽大学、フランクフルト音楽大学合唱指揮科を卒業。スウェーデン、ドイツ、イギリスでE.エリクソン、H.リリング、W.シェーファに師事。武満徹監修「Music
today 」、サントリー音楽財団「サマーフェスティバル」などの公演で合唱、室内楽を指揮し注目を浴びる。東京交響楽団とジョン・アダムス『エル・ニーニョ』、ゲルギエフ指揮ストラヴィンスキー『結婚』など大編成合唱団のコーラスマスターとしての実績も評価されている。現在、NHK
東京放送児童合唱団客員指揮者、東京混声合唱団指揮者、活水女子大学音楽学部学術研究所教授。 |
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音楽のまち(4)
― サンクト・ペテルブルク |
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| サンクト・ペテルブルクは、日本の北海道よりずっと北、北緯約60
度のところにある町です。緯度が高いので、6月ごろになると、太陽が一日沈まない「白夜」があります。短い夏をすぎると、あっというまに暗くて寒い冬がやってきます。朝、明るくなるのは10
時くらい、そして午後4 時にはもうまっ暗です。気温は零下25 〜30 度。町を流れるネヴァ川や運河は、カチカチに凍りついています。そんな気候ですから、屋内で楽しむオペラやバレエ、そして芝居などがとてもさかんです。有名なマリインスキー劇場や、エルミタージュ美術館などが立ち並ぶこの町は、ロシアの人々が世界にほこる芸術の町。『ルスランとリュドミラ』の原作者で有名な詩人のプーシキンや、作家のドストエフスキーもこの町で活躍しました。また、有名な音楽学校があって、チャイコフスキーをはじめ、多くの音楽家たちが巣立っています。18
世紀から19 世紀、つまりきょうの作曲家たちのうち、ショスタコーヴィチ以外の4 人が活躍していたころは、ここがロシアの首都でした。今から300年前にこの町を作ったピョートル大帝にちなんで、「ピョートルの町」「聖ペトロの町」「ゆるぎない石の町」という意味をこめて「サンクト・ペテルブルク(略してペテルブルク)」と名づけられたのです。けれども、戦争や革命が続いた20
世紀のなかごろに、「ペトログラード」、さらに「レニングラード」と名前が変わり、首都もモスクワに移ってしまいました。1991
年、「ソ連」がなくなって、今のロシアが誕生した時、市民の投票でもう一度、昔のなつかしい名前「サンクト・ペテルブルク」にもどりました。何度も変わった名前は、町の複雑な歴史を物語っています。きょうの作曲家たちは、みなこの町にゆかりの人々ですが、ほとんどの人が、初めからプロの音楽家ではなかったということに気づきましたか?多くのロシアの人々は、いまでも本をたくさん読み、詩を書いたり、音楽を聴いたり、芸術を論じ合ったりするのが大好きです。みんな、芸術をとてもよく知り、それを誇りにしているのです。ペテルブルクの芸術家たちは、そうした、芸術を愛する、たくさんの町の人々に育てられていったのだということができます。 |
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音楽のまちの風景 |
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第4回ロシア(モスクワ、サンクト・ペテルブルク)編
グレブ・ニキティンさん(東京交響楽団 コンサートマスター)
きょうみなさんに聴いていただいた曲はロシアで生まれた音楽です。ロシア出身の東京交響楽団のコンサートマスターグレブ・ニキティンさんに、サンクト・ペテルブルクについて、そしてご自分の故郷モスクワの紹介や音楽生活についてお話いただきました。 |
――――ニキティンさんはモスクワのご出身。モスクワとサンクト・ペテルブルクは飛行機で約1時間かかるくらいの距離ですから、日本でいえば、東京と大阪という感じでしょうか?二都市とも多くの名作を生んだ有名な「音楽のまち」です。
モスクワとサンクト・ペテルブルクはライバル同士です。東京と大阪よりもっとライバル(笑)。音楽の競争も激しくて、それぞれ歴史的に有名なスクール(楽派)があります。ロシアの音楽が展開をみせたのは19
世紀で、チャイコフスキーの先生であるアントン・ルビンシテインがサンクト・ペテルブルク音楽院を、その弟でチャイコフスキーの友人だったニコライ・ルビンシテインがモスクワ音楽院を創設し、そこから有名な音楽家がたくさん生まれました。二つの学校とも、指揮やヴァイオリン、ピアノ……といった専攻ごとに、代々有名な先生が教えています。モスクワで勉強する学生はたいていモスクワ音楽院をめざしますね。ちなみに私がいた当時のモスクワ音楽院のヴァイオリン専攻は、サンクト・ペテルブルクからの学生が一人だけで、あとはモスクワや、世界各国から集まっていました。
――音楽の勉強は小さいときからされていましたか?
私は両親が音楽家だったので、6 歳からピアノ、8 歳半からヴァイオリンを勉強しました。いつも学校におばさんが迎えにきて、しっかりピアノとヴァイオリンの練習をするよう連れて帰ってしまうので、友達と遊べないのが残念でした。本当は友達とサッカーをやっていたかったんですよ。でも「いい子」だったから、練習はさぼらなかったし、ピアノ、ヴァイオリンを弾くのは大好きでした。モスクワのこどもの遊びといえば、やっぱりスポーツ。アイスホッケー、クロスカントリー・スキーをよくしました。ロシアでは、スキーのできない男の子はいないんです。私は今でもたまに北海道に行ってクロスカントリーを楽しんでいます。
――コンサートにはよくいらっしゃいましたか?
そうですね。特にオーケストラが好きだったので、オーケストラのコンサートにはよく行きました。ロシアにも「こども定期」のようなコンサートがあったんですよ。モスクワ・フィルハーモニー交響楽団の演奏で、指揮はロストロポーヴィチやキタエンコ、ロジェストヴェンスキーたちでした。指揮者が大友さんのようなお話を最初に20
分くらいして、あと演奏を聴くのです。『シェエラザード』の全曲を聴いたのもそのコンサートでしたし、あとプロコフィエフの『ピーターとおおかみ』『ロメオとジュリエット』、ベートーヴェンの『田園』、モーツァルトの交響曲第40
番などを聴いたのを覚えています。私は6 、7 歳くらいから行っていましたが、初めはお話を聴くのが退屈で、はやく演奏が始まらないかなぁと思っていました。
――サンクト・ペテルブルクにいらしたことはありますか?また初めてモスクワ以外の場所にいらしたのはどこですか?
サンクトには6 、7 回行っています。とてもきれいな場所で、「冬宮」「夏宮」という二つのメインパレス、エルミタージュ宮殿など大好きなところがたくさんあります。最初にモスクワ以外の場所にいったのは、エストニアのタリンというところです。高校生のとき、オーケストラの演奏旅行で行きました。あとモンゴリアにも演奏旅行で行きました。オーケストラはモスクワ音楽院のプレカレッジにいたときから入っていたんです。指揮の勉強もしていたので、オーケストラで演奏することはとても勉強になりました。モスクワ音楽院では、ヴァイオリンと指揮でディプロマをとりました。
――「音楽のまち」としてのモスクワはどういうところでしょう? ロシアでの音楽家の生活についてお話しください。
私がモスクワのボリショイ劇場管弦楽団で仕事をしていたのは10 年〜16 年前にかけてのことですので、いまとは状況がまったく違うのですが、当時、音楽家の生活は国によって保証されていました。いい音楽をする演奏家は身分が保証され、家や運転手付きの車、生活に必要なものはすべて国から与えられるのです。いい音楽家は社会的な身分も高く、たとえばボリショイ劇場管弦楽団のID
カードを使って、クレムリン宮殿のなかに自由に入ることもできました。内緒の話ですが、友達によればそのID を出すと、警察はスピードオーバーも見逃してくれたらしいです。いまは社会体制が変わって、そういう生活はもう誰もしていませんけれど。日本の生活は忙しいですが、聴いてくださるお客様がとても熱心で、あたたかい拍手にいつも励まされます。
みなさんからの質問にお答えします
――バレエを習っていて、バレエ音楽が大好きです。ニキティンさんはどのようなバレエ音楽がお好きですか?
ポリショイ劇場のオーケストラにいたとき、20 〜30 のバレエ音楽を演奏しました。一番好きなのは、チャイコフスキーの『くるみ割り人形』、次がグラズノフの『ライモンダ』、3
番目がハチャトゥリアンの『スパルタクス』です。
――ロシアは寒い国だと思います。ヴァイオリンの練習は手が冷たくなって大変だったのではありませんか?
冷たいほうが音はきれいになります。もちろん、かじかむほど冷たくては弾けませんので、少し暖めますけれどね。エキサイトするとアドレナリンが分泌されて体が熱くなり、手だけ冷たくなるみたいです。そういうときのほうがいい演奏ができます。
――質問を募集します
次回のテーマは「イタリア」。イタリアに馴染みの深いメンバーが登場します。きいてみたい質問を、別紙に書いて「オーケストラへの質問箱」に入れてください。郵便、Eメールの場合は次の宛先にお願いします。
締切は12月26日(月)です。
東京交響楽団「オーケストラへの質問箱」係
〒212- 8554 川崎市幸区大宮町1310 ミューザ川崎5F
e-mail:tokyosymphony@@musicinfo.com |
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