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2005年9月3日(土) |
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■ブルックナー作曲
交響曲第4番変ホ長調『ロマンティック』 第3楽章 |
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| オーストリアの首都ウィーンから、電車で西に2 時間ほど行ったところに、リンツという街があります。アントン・ブルックナー(1824-
96 )は、このリンツの近くで生まれ育ちました。ブルックナーは、こどものころから村の教会の聖歌隊で歌ったり、オルガンを弾いたりしていました。やがてすぐれたオルガニストとして知られるようになり、リンツの大聖堂のオルガニストという、大変名誉のある仕事につきました。けれどもある時、ドイツの作曲家ワーグナーのオペラを聴いて、そのすばらしいオーケストラの響きに感激したブルックナーは、故郷をはなれてウィーンに行き、交響曲の作曲をはじめます。彼がつぎつぎに書いた交響曲のほとんどは、ウィーンが誇るオーケストラ、ウィーン・フィルハーモニーによって初演(はじめて演奏すること)されました。この『交響曲第4
番』も、そのひとつです。ここでは、ホルンやトランペット、トロンボーン、テューバなど、金管楽器がたくさん使われ、輝くような華やかな響きをかなでます。お聴きいただく第3
楽章は、「スケルツォ」という形式を持った音楽で、狩のラッパのように金管が鳴り響くところと、やや落ちついたゆっくりとしたところとが、かわるがわるに出てきて、まるであざやかな絵を見ているかのようです。真ん中のところは、まったく性格のちがう音楽に変わる「トリオ」というところ。オーストリアの農民の踊りの曲のような、そぼくな音楽です。 |
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■ハイドン作曲
トランペット協奏曲 変ホ長調第1楽章 |
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| フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732- 1809 )は、18
世紀後半、モーツァルトと同じころに活躍した作曲家です。彼も子供の時は、ウィーンの真ん中にある一番大きな教会、シュテファン大聖堂の聖歌隊で歌う、少年歌手でした。大人になってから、しばらくウィーンをはなれ、アイゼンシュタットという町で、ハンガリーの貴族に30
年間仕えました。ハイドンがウィーンにもどってきたのは、60 歳ごろのこと。そのころすでに彼は、ヨーロッパじゅうで最も有名な作曲家になっていました。そして、熱心なハイドン・ファンがたくさんいるイギリスのロンドンと、ウィーンの間を、行ったり来たりする生活を送りました。この『トランペット協奏曲』は、そのころの作品です。「協奏曲」とは、オーケストラとソリスト(独奏者)とが、たがいに競い合ったり、対話をしたりしながら演奏するスタイルの曲のこと。ソリストは、すばらしいテクニックや、美しい音色をひろうします。今から205
年前にこの曲を初演したのは、ウィーンのトランペット奏者ヴァイディンガーでした。せんさいな表現や、輝かしい音色を生み出すため、彼は、彼が考えた新しいしくみのトランペットで、この曲を演奏したのではないかと言われています。 |
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■トランペット独奏:アントニオ・マルティ(東京交響楽団首席奏者) |
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| 東京交響楽団首席トランペット奏者。1978年スペイン・バレンシア生まれ。10歳よりトランペットを始める。98年テネリフェ・コンセルヴァトワール(スペイン)卒業後、マンネス音楽学校(米国・ニューヨーク)へ全額奨学金を得て入学。A.ラモス、V.ペンザレラの各氏に師事。97年、98年モンセラート室内楽コンクール(スペイン)、98年ニース夏期国際音楽アカデミーコンクール(フランス)、2001年マンネス音楽学校内協奏曲コンクールで優勝。2001年、01年パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)に参加。これまでにスペイン国立青年管弦楽団、テネリフェ響、グラナダ響、ニューヨーク・フィルハーモニックなどに客演。2003年5月マンネス音楽学校卒業後、同年12月より東京交響楽団首席トランペット奏者として入団、現在に至る。 |
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■ヨハン・シュトラウスII世作曲
皇帝円舞曲 |
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| 「ワルツの王」とよばれるヨハン・シュトラウスII世(1825-
99 )の家は音楽一家で、お父さんも、弟たちも、作曲家や指揮者でした。ヨハン・シュトラウスは、お父さんと名前が同じなので、区別するために「II世」とか「ゾーン(息子)」などと呼ばれています。シュトラウス親子の率いるオーケストラ「シュトラウス楽団」は、ヨーロッパじゅうのさまざまな都市やロシア、アメリカにまで呼ばれていき、世界中にウィーンのワルツを広めていきました。お
聴きいただく『皇帝円舞曲』は、シュトラウスII世が64 歳になった年に作曲されました。オーストリアの皇帝と、ドイツの皇帝が同盟(たがいに協力する約束)を結んだことを記念する曲で、もともとは、『手に手をとって』という題名でした。 |
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■シェーンベルク作曲
弦楽合奏曲『浄められた夜』から |
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| 19世紀の終わりにウィーンで生まれたアーノルト・シェーンベルク(1874-1951)は、20世紀の多くの音楽家たちに影響を与えた人です。ほとんど先生につかず、苦労しながら自分の力で音楽の勉強をしました。それにもかかわらず、シェーンベルクはとても教養の豊かな人で、音楽家はもちろん、画家や詩人など多くの芸術家たちとも深いつきあいがありました。そうした仲間たちとともに、シェーンベルクは、20世紀という新しい時代にふさわしい芸術、ふさわしい音楽を作ろうと考え、さまざまな音楽の実験を行なっていくのです。シェーンベルクは、音楽の「ハーモニー」をとても大切にする人でした。彼が25歳の時に作曲したこの『浄められた夜』も、まるでさまざまな色の絵の具を何色も重ねていったような、不思議な響きにあふれています。この曲を書いた時、シェーンベルクは、デーメルというドイツの詩人が書いた、ある詩を頭に思いうかべていました。それは、ある夜、静かに散歩している男女の会話を描いた詩です。女は、静かな口調で、男に告白します。私は愛しているあなたをうらぎってしまいました。そのことでとても苦しんでいるのです、と。それを聞いた男は、女をやさしくゆるし、二人はたがいの強い愛を感じながら、明るい月の光の中を歩いていきます……。シェーンベルクの音楽は、人間の心の奥底には、いつもはげしい情熱がひめられていて、それが時には人間を苦しめることがあるけれども、愛や情熱は、時にはそうした苦しみさえ乗りこえてしまうほどの強い力も持っているのだ、ということを描こうとしています。お聴きいただくのは、はげしくゆれ動く二人の心が、やがて愛の力によって清められていく場面。暗い夜が、しだいに明るい月の光に包まれていく、とても印象的なところです。 |
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■ベートーヴェン作曲
ピアノ協奏曲第5番変ホ長調『皇帝』第3楽章 |
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| ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770- 1827
)のふるさとは、ドイツのボンでした。彼がウィーンのまちにやってきたのは、1792 年、22 歳の時のこと。有名な作曲家、ハイドンの弟子になるためです。ウィーンにやってきたベートーヴェンは、まず、ピアニストとして大活躍することになります。彼のすばらしい演奏は、ウィーンの人々をすっかりとりこにしてしまいました。曲を他人にまねされないように(と、ベートーヴェン自身が言っているのですが)、ベートーヴェンはつぎつぎとむずかしいテクニックを考え出し、コンサートに集まった多くの人々を楽しませました。こ
の『ピアノ協奏曲』も、そうした作品のひとつです。お聴きいただく第3 楽章は、同じメロディを何度もくり返し使う「ロンド」という形式の曲。勇ましい馬のギャロップのような、独特のリズムを持っています。 |
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■ピアノ独奏:小山実稚恵 |
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| 1982年チャイコフスキー・コンクール第3位、85年ショパン・コンクール第4位と日本人として初めて二大国際コンクールに入賞し、その後も人気、実力ともに日本を代表するピアニストとして目覚ましい活動を続けている。2005年にはショパン・コンクール入賞から20年を迎え、東京、仙台、京都にてコンチェルトの記念演奏会うぃ開催するほか、ショパンのバラード全曲を中心にしたプログラムで全国リサイタルツアーを行っている。海外オーケストラとの共演も数多く、BBC響、モントリオール響、ベルリン響、ウォルフガング・サヴァリッシュ、ジャン・フルネ、シャルル・デュトワ、ユーリ・テミルカーノフなど、世界の第一線で活躍する指揮者との共演は数多い。レコーディングも活発に行い、数多くのCDをリリース。最新盤「スクリャーピン:ピアノ・ソナタ全集(3枚組)」(ピアノ・ソナタ全10曲、24の前奏曲、詩曲ほか)は『レコード芸術』誌特撰番に選ばれ、各方面で話題を呼んでいる。今後のリリースとしては「ショパン:バラード(全曲)」を予定している。 |
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■ブラームス作曲
交響曲第1番ハ 短調第4楽章 |
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| ヨハネス・ブラームス(1833- 97 )は、ブルックナーと同じころに活躍したドイツの作曲家です。北ドイツの港町、ハンブルクに生まれたブラームスが、ウィーンの街にはじめてやってきたのは、27
歳の時でした。やがて彼は、ウィーンの音楽家たちの集まりである「楽友協会」の芸術監督になります。そこでオーケストラや合唱の指揮をするうち、彼は、ウィーンの人々にとってなくてはならない人になっていました。ブ
ラームスが、この『交響曲第1 番』を完成したのは、43 歳のころのことです。当時、オーケストラの音楽の中でも最も重要な「交響曲」は、作曲家にとってとても重いもの――作曲家が自分のすべてをかけて作曲するべきものだと考えられていました。ブラームスも、自分にとって初めての交響曲であるこの曲を作曲するのに、20
年以上もの年月をかけています。ブラームスは、この曲を書く時に、ベートーヴェンの交響曲をお手本にしたと言われます。なるほど、お聴きいただく第4
楽章の後半は、ベートーヴェンの第9 交響曲の「歓喜の歌」によく似ていると思われませんか? |
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音楽のまち(3)
― ウィーン |
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| オーストリアの首都ウィーンは、ヨーロッパ文化の交差点と言われます。昔のローマ帝国の北の境にあったウィーンは、イタリア半島に栄えたローマ文化の北のはし。ドイツ語を話す人々にとっては、ドイツ語文化の南東のはし。ハンガリーやチェコなど、東ヨーロッパの国々にもとても近い場所にあるこのまちには、ヨーロッパの東西南北から、いろいろな言葉や文化を持った人々が集まってきます。ですから音楽家たちにとって、このウィーンで認められるということは、世界中から認められるのと同じくらいの、重要な意味を持っています。ドイツから、フランスから、イタリアから、イギリスから、たくさんの音楽家たちがウィーンのまちにやってきました。きょうきいていただく作曲家たちのほかにも、ショパン、ロッシーニ、マーラーなど、このまちを一いち度でも訪れなかった人はいないのではないでしょうか。ウィーンで生まれた音楽家たち、たとえば「ウィーンの心こころ」と言いわれるシューベルトや、ヨハン・シュトラウスの一家は、人々にとりわけ愛あいされていて、まちのいたるところに、彼らの像などがあります。まちを流れるドナウ川、西に広がるウィーンの森……町中どこもかしこも、有名な音楽のふるさととなった場所ばかりです。ウィーンの人々が大好きなコーヒーも、東のトルコからやってきた食の文化です。人々がつどう伝統的なカフェハウスでは、コンサートも行なわれ、かつてはシューベルトやシュトラウスが演奏しました。とくにシュトラウスの音楽は、ヴァイオリン、ギター、クラリネットやアコーディオンを抱えた、楽たのしい「シュランメルン」の楽団によって演奏されることもあり、ウィーンのまちの生活には欠かせない音楽でした。ウ
ィーンはまた、華やかな宮廷文化が花開いたまちでもあります。現在でも、毎年冬の舞踏会シーズンには、美しいドレスに身をつつんだ人々が、オペラ劇場やコンサートホール、王宮に集まり、まるでおとぎ話の世界のように優雅に踊おどります。ウィーン・フィルハーモニーによる新年の「ニューイヤー・コンサート」や、舞踏会の様子は、日本のテレビでも中継されることがありますね。その一方で、有名な現代音楽祭が盛大に開かれるなど、ウィーンはまさに、伝統と新しさのまちなのです。 |
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音楽のまちの風景 |
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第3回オーストリア(ウィーン)編
小林利彰さん(東京交響楽団 クラリネット奏者)
今回は、「生まれも育ちも浅草」の江戸っ子ながら、ウィーンに6年間留学して以来、ウィーンが「第二のふるさと」になった、という小林利彰さんの登場です。18歳でウィーンに渡り、一人暮らしをしながら勉強した小林さんに、「音楽の都」はどう映ったのでしょうか? |
――ウィーンに留学したきっかけを教えてください。
まず楽器のことから説明しますね。クラリネットにはドイツ式とフランス式があって、楽器のかたち、音色、指づかいが違います。世界で両方とも使われているんですが、いまはフランス式のほうが主流で、日本で勉強するのもこちらが普通です。そのなかで僕は変わり者で、高校のときにドイツ式の楽器に興味をもったんですね。きっかけは、一緒に勉強していたクラスメートがドイツ式の楽器があることを教えてくれたことで、それからレコードを買っていろいろ聴いてみたとき、すごくいいなと思ったのがドイツの楽器の音だったんです。それでおそるおそる先生(当時N
響にいらした三島勝輔先生)に「ドイツ式の楽器をやりたいのですが」と言ってみたら、意外なことに先生が大賛成。それどころか「楽器を変えるなら、ウィーンに行ってあちらの学校に入って勉強したほうがよい」と留学先の手配を始めてくれちゃった(笑)。僕は浅草育ちで東京大好きでしたし、ウィーンといわれてもピンとこなかったんですが、すばらしい先生がいらっしゃることがわかって、じゃあ行ってみようかなと。高校3年の夏休みに、下見を兼ねて、ウィーンでの講習会に参加したのが、初めてのウィーン、というか生まれて初めての外国でした。まちの雰囲気も気に入りましたが、なにより講習会でレッスンを受けた先生がすばらしくて、ここに留学しようと決意したんです。
――ドイツ語はどうやって勉強したんですか?
芸高を卒業した後、東京のドイツ語学校の「3ヶ月速成コース」に入って、特訓を受けたんです。分厚い本のドイツ語を丸暗記しながら。でも向こうにいったらぜんぜんダメでした。まず現地の人がいう言葉がききとれない。ウィーンのドイツ語は「ヴィーナリッシュ」といってアクセントや発音が違うんです。耳が慣れるまでに何ヶ月かかかりました。
――ウィーンでは学校に入ったんですか?
はい、ウィーン高等音楽院(現在はウィーン音楽大学)に入って、ウィーン・フィル首席奏者のペーター・シュミードル教授のクラスで勉強しました。ウィーン・フィルやベルリン・フィルをめざす先鋭たちが集まるクラスで、すごく厳しいレッスンでした。毎週火曜と金曜、全員参加のレッスンがあって、みんなの前でそれぞれが課題を吹くんですが、みなものすごくうまいのと、先生のおっしゃることがとてもレベルが高いので、必死で勉強しました。辛くなるときもありましたが、夢をもって一所懸命勉強していたので、楽しかったです。自分のことをしっかり主張することの大切さも学びました。このとき一緒に勉強していた仲間の何人かは、いまウィーン・フィルやベルリン・フィルで演奏しています。ウィーン郊外にある先生の別荘に遠足に行たクラスアーベント(音楽会)のあとレストランに行ったりしたのもいい思い出東京交響楽団で演奏できるのも、あのときのレッスンのおかげと思います。
――住まいや食事はどうされていましたか?
部屋は朝から夜まで音出しできるところを探してもらって、学校まで歩いて15 分で行けるところに間借りしていました。ナッシュマルクト(市場)も歩いていけたので、買い物して自炊していました。レッスン中心の生活だったので、あまり遊ぶ時間はなかったんですが、オペラを聴きに行ったり、名物のウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートも、毎年聴きに行きました。
――ウィーンは「音楽の都」だけでなく、美術館もたくさんあって、お料理もお菓子もおいしい。観光にぴったりの場所と思いますが。
それに気づいたのは、1996 年の東京交響楽団のヨーロッパツアーの最後にウィーンに行ったときです。留学から帰って13年ぶりのウィーンでした。ホイリゲ(自家製のワインや料理を出すレストラン)でお酒を飲みソーセージを食べて、「ウィーンのワインはこんなにおいしかったのか、6年もいたのにもったいないことをした」(笑)と思いました。まちの雰囲気も、かつては排気ガスで建物が黒かったのがきれいになっていて、散歩しているだけでもすごく楽しい。作曲家が住んだ家、歩いた道、眠っているお墓も、みなまちのなかにあります。とても気に入って、同じ年に今度は家族旅行で行き、それから2年おきに家族でウィーン旅行しています。僕の大切な第二の“ふるさと”です
みなさんからの質問にお答えします
――クラリネットの勉強を始めたのはいつですか?
小学校4年になって合奏クラブに入るとき、どの楽器にするか決めるために、演奏家が学校にきて楽器の音を出してくれたことがあったんです。フルート、クラリネット、トランペット、ヴァイオリンがあったんですが、そのとき音を聴いた瞬間、クラリネットに決めました。なんていい音だろうと思ったんです。いまでもクラリネットの音が大好きです。
――クラリネットとリコーダーはどこが違いますか?リコーダーがうまくなればクラリネットもうまくなりますか?
大きな違いは、リコーダーはリードがないことです。クラリネットは口でリードを振動させるのが難しいので、リコーダーが吹けてもすぐクラリネットが吹けるわけではないのですよ。
――クラブ活動でクラリネットをやっています。息が続かなく音もうまく吹けないのですが、何かコツはありますか?
ロングトーンの練習を根気よくすることが大切です。それも無理に大きな音を出すのではなく、楽に出せる音でやってみてください。リードも楽に音が出せるものを選んだほうがよいと思います。大きくなれば口の筋力がもっとつくようになると思うので、それまであまり無理をしないように練習したほうがよいでしょう。
――質問を募集します
次回のテーマは「サンクト・ペテルブルク」。モスクワ出身のコンサートマスター、グレブ・ニキティンさんが登場します。ニキティンさんに聴いてみたい質問を、別紙に書いて「オーケストラへの質問箱」に入れてください。郵便、Eメールの場合は次の宛先にお願いします。
締切は9月30日(金)です。
東京交響楽団「オーケストラへの質問箱」係
〒212- 8554 川崎市幸区大宮町1310 ミューザ川崎5F
e-mail:tokyosymphony@@musicinfo.com |
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