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2003年10月11日(土) |
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■グリンカ作曲 オペラ『ルスランとリュドミーラ』序曲 |
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ミハイル・イヴァノヴィチ・グリンカ(1804-57)は、今から200年ほど前のロシアの作曲家です。彼の一家は貴族で、父親は広い領地を持っていました。こどものころグリンカは、その領地の農村でくらしました。彼は、乳母(母親のかわりにこどもの世話をする人)が教えてくれるロシアの民話や民謡、そして近所の農民たちの楽しい踊りなどが大好きでした。家庭教師の先生は、彼が音楽にばかり夢中で、ほかのことがおるすになっている、と小言を言いましたが、10才のグリンカはこう答えたそうです。「音楽は、ぼくの魂なんです」。
グリンカはいつも、ロシアの人々のために、ロシア人である自分にしか書けない音楽を書こうと考えていました。彼のこの考え方は、ほかの作曲家たちにも大きな影響を与えました。グリンカが書いた、民話や英雄の物語をもとにしたオペラ、そして美しいメロディーを持ったたくさんの歌曲は、いまでもロシアの人々に愛されつづけています。
この『ルスランとリュドミーラ』は、グリンカが腕によりをかけて作った力作でした。彼は、有名な詩人のプーシキンが古い民話を題材に書いた詩をもとにして、オペラのすじ書きをつくりました。..むかしむかし、ロシアの王様には、リュドミーラという姫がいました。美しい姫に、3人の勇者が結婚を申しこんできます。ところが姫は悪魔にさらわれてしまい、王様は、3人のうち姫を助けた者に結婚をゆるそうと約束します。3人は一生けんめいに戦いますが、ついにみごと姫を救い出したのは、勇者ルスランでした…。
お聴きいただく「序曲」とは、オペラの最初にオーケストラだけが演奏する曲のこと。この序曲では、オペラの重要な場面の音楽が使われていて、これから始まる物語の流れがわかるようになっています。この曲のはじめの部分は、物語のクライマックスである、結婚式の場面の音楽です。 |
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■ハイドン作曲 チェロ協奏曲第1番
ハ長調から 第3楽章 |
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オーストリアの作曲家フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)は、18世紀後半のヨーロッパで、もっとも有名な作曲家でした。今のドイツの国歌が、このハイドンの曲だということをごぞんじですか?
ベートーヴェンも、彼にあこがれ、弟子になったひとりです。
こどものころのハイドンは、歌が上手で、ウィーンの聖シュテファン大聖堂の聖歌隊ではいつもソロを歌っていました。彼の声はすきとおるように美しく、聞いた人はみなうっとりしたと言われます。けれどもふだんは、とても元気でやんちゃな少年でした。大切な行事で歌うために宮廷に呼ばれて行った時、本番が終わったあとに、工事中の建物に登ってさわいでいて、皇帝マリア・テレジアにしかられた、という話が残っているほどです。
きょう聴いていただく「チェロ協奏曲第1番」は、おとなになったハイドンが、ハンガリーのエステルハージ侯爵の城で、オーケストラの副楽長や楽長の仕事をしていたころの作品です。「楽長」は、オーケストラが演奏する曲を作曲したり、指揮したりするほか、団員をたばねる責任者。ハイドンは、オーケストラのみんなから「パパ」と呼ばれるほど頼りにされるよいリーダーで、仲間を大切にしていました。彼は、団員たちをはげますため、オーケストラのなかのいろいろな楽器を順番にソロにして協奏曲を書いています。
そうした協奏曲の楽譜のほとんどは、町の火事などでなくなってしまったのですが、幸運なことに、この「チェロ協奏曲第1番」は、200年もたった1961年になって発見されました。全部で三つの楽章のうち、もっともテンポの速いこの第3楽章は、むずかしいテクニックもたくさんある、とてもはなやかな音楽です。 |
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■チェロ独奏:横坂
源 |
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| 1986年、新潟市生まれ。4歳半からチェロを始める。鷲尾勝郎、毛利伯郎に師事。第8回日本クラシック音楽コンクール最高位、全日本ビバホール・チェロコンクール第1位など、多くのコンクールで受賞。99年、秋山和慶指揮東京交響楽団と共演。2002年、カザルスホール「プロジェクトQ」に最年少チェリストとして出演。同年、桐朋学園音楽部門創立50周年記念演奏会で、小澤征爾指揮のもと、ハイドンの協奏曲を共演。現在、桐朋学園女子高等学校音楽科に在学中。 |
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■ベートーヴェン作曲交響曲
第9番 ニ短調「合唱付」から第3楽章 |
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『第九』全曲を聴こう−その3
ベートーヴェン(1770-1827)が若いころ、世の中は、それまでのように王や貴族だけが力を持つのではなく、ふつうの人々が、身分にかかわりなく自由に平等に生きることのできる新しい社会をめざして、大きく動いていました。なかでも彼のふるさとボンの町は、貴族も市民もいっしょに学問や芸術を語りあう、自由なふんいきに満ちていました。芸術は、王や貴族のものではなく、ふつうの人々のものだ。そして、ふつうの人間である芸術家自身のものだ..みんなが、そんなふうに考えるようになっていました。
ベートーヴェンも、作品を自分の「分身(もうひとりの自分)」だと考えていました。彼がそう強く感じるようになったのは、耳が聞こえなくなるという大変な病気にかかったころからでした。彼は苦しみ、とうとう自分の命を絶つことも考えて、遺書まで書いたのです。彼が32才の時でした。けれどもそんな人生のどん底で、彼は、自分には音楽という大切な使命があるのだと気づき、運命に立ち向かっていこうと決心します。
私たちが生きている間には、苦しいことが山のようにあります。けれどもそれを一つ一つ乗りこえていくうちに、私たちは人間として成長し、たがいを尊重し助けあうことが大切なのだということを知るのです。ベートーヴェンは、そうした理想の人間の姿を、音楽のなかで描きたいと考えていました。とくに、たくさんの音がいっしょに響いて一つのハーモニーを作る交響曲は、それを表わすのにもっとも適していると思ったのです。
ですから、彼の音楽にはいつもドラマがあります。テーマ(主題)が現われ、順調に音楽が進んでいくように見えると、それをじゃまするものが現われます。そして、長い戦いが続きます。けれどもその後には、すべてのものが新しい姿に生まれかわり、生き生きとかがやくのです。ベートーヴェンの音楽が、私たちに何かを語りかけているように感じるのは、音楽のなかにこうして彼自身が生きているからなのでしょう。
〈きょうの『第九』〉
きょうは第3楽章です。ほかの楽章とはちがって、ゆったりとしたテンポのこの楽章は、いってみれば曲のなかのオアシス(砂漠の中の泉のように、やすらぎを与えてくれる場)です。二つの、歌うようなメロディが流れていきます。けれども、じつはここにもいろいろな「ドラマ」があるのです…。 |
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■チャイコフスキー作曲 交響曲第4番
から 第3楽章、第4楽章 |
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ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840-93)は、グリンカとならんで、ロシアでたいへん人気がある作曲家です。
「三大バレエ」とよばれる『白鳥の湖』『眠りの森の美女』『くるみ割り人形』、それに4月に一部分を聴いていただいた『エフゲニー・オネーギン』などのオペラは、ロシアだけでなく、世界中の劇場で上演される作品です。チャイコフスキーがみなさんくらいの年のころ、どんなこどもだったかというと、繊細で、ものごとに感じやすく、「こわれやすい白いせともの」のようだったと伝えられています。ただ音楽だけは、だれにも負けないほど好きでした。10才の時には、劇場でグリンカのオペラを見て心から感動し、友達に「ぼくは音楽家になるような気がする」と言ったそうです。
けれども彼の家は、グリンカ家のようにお金持ちでもなく、ハイドン家のように家族が音楽家だったわけでもありませんでした。父親は鉱山(鉄や石炭などをとる山)で働く技術者でしたし、チャイコフスキー自身も、法律の学校に行き、19才の時にはもう役所で働いていました。どうしても音楽があきらめられず、音楽学校に入りなおして勉強をはじめたのは、20才になってからです。
そんなチャイコフスキーが尊敬していた作曲家のひとりが、ベートーヴェンでした。苦しいことをのりこえながら音楽を書きつづけたベートーヴェンの「交響曲第5番」をお手本にして、チャイコフスキーはこの「交響曲第4番」を書いたと言われます。きょう聴いていただく第3楽章、第4楽章は、弦楽器のさまざまな表情が楽しめる音楽です。第3楽章では、弦楽器が「ピッツィカート」(弦をはじく演奏法)で演奏する、不思議な響きの部分や、楽しいロシアのおどりのような部分が出てきます。チャイコフスキーによると、これは「眠っている人の頭にうかぶ夢」の音楽なのだそうです。
第4楽章でも、かがやかしい音楽の間に、ロシア民謡のメロディーが出てきます。この楽章には、「自分が楽しくない時は、みんなのところへ行き、みんなが幸せなようすを見て、いっしょに喜びなさい。そうすれば、生きる勇気がわいてくる。いつだって幸せはある」という意味をこめているのだ、とチャイコフスキーは言っています。 |
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